若狭守氏房 天正十三年二月日 ・織田信長のお抱え鍛冶(専属刀匠)最良業物

特別保存刀剣鑑定書  (Nobukuni) [N.B.T.H.K] Tokubetu Hozon touken
本作は織田信長の専属刀匠の若狭守氏房の作。天正十三年(1585)には織田家筆頭家老、佐久間正勝の最後のお抱え刀匠として武将としての刀ではなく、三英傑(織田信長・豊臣秀吉・徳川家康)に茶人・アドバイザーとして関わった佐久間正勝が文化人としての意を汲み、打たれた懐刀(短刀)は名門専属刀匠:若狭守氏房の最高にして絶作です。
📌年号・天正十三年二月日は氏房・佐久間正勝の人生のリブート「生き直しの成功」のきっかけになった時期として考える。年号はこれまでの歴史背景が明確に読み取れる歴史資料価値、実際に制作した年月日は注文打ちであることから評価が高く、生ぶ茎であり当時の原形が保たれた貴重な1振りです。年号のある若狭守氏房には重要刀剣に指定されています。【押し型:室町期 美濃刀工の研究より】
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説明:
本作、若狭守氏房は、はじめ父・兼房と同様に「兼房」名乗り、父は美濃関鍛冶の由緒ある名門の名匠(三代兼房・河村清左衛門:関鍛冶の棟梁)三男です。「関七流」の一つ、善定家を継承した刀工です。本作は生ぶ茎・地刃健全の若狭守氏房の最後の主君に打たれた、名門家専属刀匠の最高にして絶作でです。

若狭守氏房の現存数は少なく、子に「尾張三作の一人に飛騨守氏房」と政常・信高ともに後、尾張徳川家の祖である徳川義直へと次々に仕え尾張新刀の草分けとして成功をおさめた。生誕:1534年(天文3年) 美濃国(岐阜県)、死没:1590年5月11日(天正18年)57歳 清洲の地で没しましたと伝う。

はじめ駿河国(現在:静岡県)の守護「今川氏真」に招かれて府中にて鍛刀します。これにより今川氏真から氏の字を賜り、氏房(うじふさ)と改名しました。

氏房は「織田信長」のお抱え刀鍛冶として、1570年(永禄13年)正親町天皇(おおぎまちてんのう)から左衛門少尉、及び「若狭守」に任命され、「若狭守氏房」と銘を切る。 📌 「脇差:関住若狭守氏房作 元亀元年八月日」(1570年)の作がある。

若狭守氏房は「織田家」お抱え刀鍛冶として、尾張国(現在愛知県)の清洲城、近江国(現在滋賀県)安土城に移住したと伝う。📌 「短刀:若狭守氏房 江州安土住人」(安土城の地名)の作あり。安土住とは旧:滋賀県蒲生郡安土町の地

「本能寺の変」1582年(天正10年)により織田信長が自害したあと、信長の三男・織田信孝のお抱え鍛冶になり、信孝は天正11年(1583年)5月2日亡くなりました。若狭守氏房の子(後の飛騨守氏房)は信孝の小姓を務めていました。

その後、天正12年頃、織田信雄(次男)が清洲城を本拠地とする。📌「刀:若狭守藤原氏房作 尾州清州住」があります。 若狭守氏房は天正12年頃、織田家の筆頭家老(重臣)佐久間正勝(筆頭重臣の御曹司)のお抱え鍛冶になります。

佐久間正勝の天正13年2月日の歴史背景は、天正12年(1584年)3月に始まり、同年11月に終わった(小牧・長久手の戦い)に、正勝は織田信雄や家臣を救うため、また秀吉に「二心(謀反の心)なきこと」を証明するために髪を落として出家し、不干斎(ふかんさい)と号しました。正勝は豊臣秀吉や徳川二代将軍・徳川秀忠の御伽衆(おとぎしゅう:話し相手や相談役)に列しました」。慶長5年頃(1600年)武蔵国(埼玉県・東京都)に3,000石の領地を与えられて、寛永8年11月23日(1632年1月14日)に死去。 

織田家の筆頭家老を務めた重臣は「右衛門尉・佐久間信盛」の長男(嫡男)、「佐久間正勝」は本能寺前後に信長の子息らに仕えた武将です。尾張国の蟹江城主に任じられ、のちの賤ヶ岳の戦いの後には伊勢国の峯城も任されました。

 

種別 形状 元幅・元重

短刀
庵棟 平造り わずかに反りつく
元幅:2・7cm
元重:0・6cm

表銘:裏銘

若狭守氏房   天正十三年二月日

国・時代

美濃・尾張
室町時代末期から安土桃山時代

長さ

29・4cm

反り

0・3cm

茎・目釘穴

生茎(うぶなかご)・2 個

帽子

乱れてやや地蔵風に少し深く返る

刃文

互の目に尖り互の目交じり匂い口やや深めに小沸よくつく。砂流し頻りにかかり、匂い口明るく見事に冴える。帽子にかけて華やかに匂いでき。互の目が尖るところなど美濃伝風情が残る

地肌

板目に柾目よく整い、良く練れ詰む。白け映りあり。

はばき

金着せ二重

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