説明:
本作、若狭守氏房は、はじめ父・兼房と同様に「兼房」名乗り、父は美濃関鍛冶の由緒ある名門の名匠(三代兼房・河村清左衛門:関鍛冶の棟梁)三男です。「関七流」の一つ、善定家を継承した刀工です。本作は生ぶ茎・地刃健全の若狭守氏房の最後の主君に打たれた、名門家専属刀匠の最高にして絶作でです。
若狭守氏房の現存数は少なく、子に「尾張三作の一人に飛騨守氏房」と政常・信高ともに後、尾張徳川家の祖である徳川義直へと次々に仕え尾張新刀の草分けとして成功をおさめた。生誕:1534年(天文3年) 美濃国(岐阜県)、死没:1590年5月11日(天正18年)57歳 清洲の地で没しましたと伝う。
はじめ駿河国(現在:静岡県)の守護「今川氏真」に招かれて府中にて鍛刀します。これにより今川氏真から氏の字を賜り、氏房(うじふさ)と改名しました。
氏房は「織田信長」のお抱え刀鍛冶として、1570年(永禄13年)正親町天皇(おおぎまちてんのう)から左衛門少尉、及び「若狭守」に任命され、「若狭守氏房」と銘を切る。 📌 「脇差:関住若狭守氏房作 元亀元年八月日」(1570年)の作がある。
若狭守氏房は「織田家」お抱え刀鍛冶として、尾張国(現在愛知県)の清洲城、近江国(現在滋賀県)安土城に移住したと伝う。📌 「短刀:若狭守氏房 江州安土住人」(安土城の地名)の作あり。安土住とは旧:滋賀県蒲生郡安土町の地
「本能寺の変」1582年(天正10年)により織田信長が自害したあと、信長の三男・織田信孝のお抱え鍛冶になり、信孝は天正11年(1583年)5月2日亡くなりました。若狭守氏房の子(後の飛騨守氏房)は信孝の小姓を務めていました。
その後、天正12年頃、織田信雄(次男)が清洲城を本拠地とする。📌「刀:若狭守藤原氏房作 尾州清州住」があります。 若狭守氏房は天正12年頃、織田家の筆頭家老(重臣)佐久間正勝(筆頭重臣の御曹司)のお抱え鍛冶になります。
佐久間正勝の天正13年2月日の歴史背景は、天正12年(1584年)3月に始まり、同年11月に終わった(小牧・長久手の戦い)に、正勝は織田信雄や家臣を救うため、また秀吉に「二心(謀反の心)なきこと」を証明するために髪を落として出家し、不干斎(ふかんさい)と号しました。正勝は豊臣秀吉や徳川二代将軍・徳川秀忠の御伽衆(おとぎしゅう:話し相手や相談役)に列しました」。慶長5年頃(1600年)武蔵国(埼玉県・東京都)に3,000石の領地を与えられて、寛永8年11月23日(1632年1月14日)に死去。
織田家の筆頭家老を務めた重臣は「右衛門尉・佐久間信盛」の長男(嫡男)、「佐久間正勝」は本能寺前後に信長の子息らに仕えた武将です。尾張国の蟹江城主に任じられ、のちの賤ヶ岳の戦いの後には伊勢国の峯城も任されました。
