若狭守氏房 天正十三年二月日 ・織田信長のお抱え鍛冶(専属刀匠)

本作は織田信長の専属刀匠の若狭守氏房の作。織田家筆頭家老、佐久間正勝の最後のお抱え刀匠として武将としての刀ではなく、三英傑(織田信長・豊臣秀吉・徳川家康)に茶人・アドバイザーとして関わった佐久間正勝が文化人としての意を汲み、打たれた懐刀(短刀)は名門専属刀匠:若狭守氏房の最高にして絶作です。
年号・天正十三年二月日にはこれまでの歴史背景が明確に読み取れる歴史資料価値、実際に制作した年月日、注文打ちとして評価が高い。
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説明:
本作、若狭守氏房は、はじめ父兼房と同様に「兼房」名乗り、父は美濃関鍛冶の由緒ある名門の名匠:兼房(河村清左衛門)いう三男です。「関七流」の一つ、善定家の刀工です。子に「尾張三作の一人に飛騨守氏房」がいます。
生誕:1534年(天文3年) 美濃国(現在の岐阜県)、死没:1590年(天正18年)57歳

駿河国(現在:静岡県)の守護「今川氏真」に招かれて府中にて鍛刀します。
これにより今川氏真から氏の字を賜り、氏房(うじふさ)と改名しました。

若狭守氏房は「織田信長」のお抱え刀鍛冶として、1570年(永禄13年)正親町天皇(おおぎまちてんのう)から左衛門少尉、及び「若狭守」に任命され、「若狭守氏房」と銘を切る。

若狭守氏房は「織田家」お抱え刀鍛冶として、尾張国(現在愛知県)の清洲城、近江国(現在滋賀県)安土城に移住したと伝う

「本能寺の変」1582年(天正10年)により織田信長が自害したあと、信長の三男・織田信孝のお抱え鍛冶になり、信孝は天正11年(1583年)5月2日亡くなりました

その後天正12年頃、織田信雄(次男)が清洲城を本拠地とし。
若狭守氏房は天正12年頃、織田家の筆頭家老(重臣)佐久間正勝(筆頭重臣の御曹司)のお抱え鍛冶になります。

佐久間正勝の天正13年2月日の状況は、天正12年(1584年)3月に始まり、同年11月に終わった(小牧・長久手の戦い)に、正勝は織田信雄や家臣を救うため、また秀吉に「二心(謀反の心)なきこと」を証明するために髪を落として出家し、不干斎(ふかんさい)と号しました。正勝は豊臣秀吉や徳川二代将軍・徳川秀忠の御伽衆(おとぎしゅう:話し相手や相談役)に列しました。」武蔵国(埼玉県・東京都)に3,000石の領地を与えられて、寛永8年11月23日(1632年1月14日)に死去。
若狭守氏房の最後の主君に打たれた、名門家専属刀匠の最高にして絶作でです。

織田家の筆頭家老を務めた重臣は「右衛門尉・佐久間信盛」の長男(嫡男)、「佐久間正勝」は本能寺前後に信長の子息らに仕えた武将です。尾張国の蟹江城主に任じられ、のちの賤ヶ岳の戦いの後には伊勢国の峯城も任されました。

 

種別

短刀

表銘:裏銘

若狭守氏房   天正十三年二月日

尾張

長さ

29・4cm

反り

0・3cm

目釘穴

2 個

帽子

乱れてやや地蔵風に少し深く返る

刃文

互の目に尖り互の目交じり帽子にかけて華やかな出来、匂い。尖り刃に美濃伝風情が残る

地肌

板目に柾目よく整い、白け映りあり。

はばき

金着せ二重

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