家長の足跡

<福岡県・佐賀県は平家の知行で清盛の支配国でありました>
家長(伊賀平氏を本拠する武将、知盛と乳兄弟;めのとご)と、宗清(伊勢平氏の武将)を伴い、秘かに豊前から陸へと筑前八丁峠を越えた一行「新中納言知盛卿(清盛の四男、安徳天皇の伯父)・安徳天皇(清盛の孫)・二位尼(清盛の正室・知盛の母)・按察使局(あぜちのつぼね・女官)」を伴い 筑後国山本郡草野(現在:久留米草野)辿り着いたが、発心ケ嶽で草野永平(耳納山麓の豪族)の裏切りにより、平家の再興を託して家長自らが知盛の錦の直垂を纏い敵中に向かい身代わりになりました。その後落ち延び、篠山の地頭、小森某の白口村の別荘に移り安徳天皇は28歳までこの地で崩御されたと伝う。二位尼が愛用手鏡が庄前神社(久留米市大橋町)に奉納されています

家長の父は1159年(元治元年)「父:家貞」は清盛の肥前派遺により、日向太郎通良が平家に背く事件が発生を1160年永暦元年(えいりゃく)4月追討。家貞が通良ら三百数十名の首を携え京へ持ち帰ると、北部九州を中心に九州の勢力は平家に従うようになり、平家は九州に基盤を築いた。
平家は、三原荘、竹野新荘、三潴荘、上妻荘、瀬高荘など筑後川中・下流域の荘園を抑えた。また、肥前国国衙も手中に収め、河副荘、藤津荘、杵島荘、嘉瀬荘など肥前国、有明海沿岸各地に荘園や所領を得ている。

家長の墓
福岡県久留米市田主丸町中尾隈(たぬしまるまちなかおくま)台座には平内左ェ門家永(長)公の文字が彫られている。この10m上に知盛卿の墓と平神社に祀られています 

参照:久留米市史


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