「家長」は但馬海岸の平家落人伝説に登場、平内神社に祀られています

瀬戸より流された夜、船でして流された伝う
平教盛と伊賀平内右衛門家長は平内神社に祀られている平内神社

●社号:平内神社 通称:へいない・へいねいさん
・平安時代:「国司文章・但馬古事記」伊佐々神社(イササノ)
・江戸時代:「御崎大明神」「三宝荒神山権現」と称した。

宝物及貴重品:巻物 傅後 宇多天皇時代  
・由緒:平家一門の公卿・武将たちが壇ノ浦の戦いいで敗れ平家一門の公卿・武将たちが正治2年(1200)6月平教盛(平清盛の異母兄弟)門脇宰相と、その父と清盛二代に仕えた平家貞の子、伊賀平内右衛門家長の霊祠を建て御霊荒神と称し祀られている。
時代は変り→ 慶長十九年大坂の冬の陣起きり豊臣秀頼勇士を諸国に募る御崎村の 門脇氏・伊賀矢引氏、陣に加わりしも和睦により歸国(帰国)し、翌年夏の陣起こるに及びて之に加わらんとして富社に占う皍ち凶なり故其れ事を止むと傅ふ(よくねん夏の陣に参加しようとして占ったところが、悪い結果が起きるだろう、その行動をとめる事を教え伝えている)
>参照兵庫県神社誌 臨川書店刊兵庫県神職会編より
>追記現在では宇多天皇時代の巻物は現存しない

平内神社<兵庫県美方郡>香美町御崎地区平家村
 ・門脇宰相の墓(清盛の異母兄弟)
 (門脇宰相平教盛卿之墓 従三位権中納言 兼 肥前守)
 ・小宰相の墓
  小宰相(教盛の息子、通盛の妻)
「瀬戸ヨリ夜、船出シ流サレテ、帝ハ因州加露ニ御上陸ト伝ワル。当村ニハ教盛卿ト嫡子越前三位、通盛卿ノ内室 小宰相局●●子 通家、外ニ侍大将郎黨等 余多上陸シ、高野聖ノ修験者 森本浄実坊ヲ頼ミ此ノ地ニ潜●天命ヲ終ルト伝此処ニ一族ノ墓ヲ建立シ霊ヲ祀

せとよりよる、ふなでしながされて、みかどは いんしゅうかろ に ごじょうりくとつたわるとうそんには、きよもりきょうと ちゃくしえちぜんさんみ、みちもりきょうの ないしつこざいしょうのつぼね●●子みちいえ、ほかにさむらい たいしょうろうどうとう あまたじょうりくし、こうやさんひじりのしゅけんしゃ もりもとじょうじつぼうをたのみ このちにひそみ●てんめいをおわるとつたえ、ここにいぞくのはかをこんりゅうしれいまつる)←墓石に刻まれている。

宇多天皇とは
皇族の桓武平氏の祖であるます。平 高望(たいら の たかもち 桓武天皇の曾孫にあたり、高望王流桓武平氏の祖。官位は従五位下・正親正・上総介)。に「平」の姓を賜り、臣籍降下させた人物です。この勅命により、平高望王の子孫は関東地方で勢力を拡大し、後の「坂東平氏・現在の茨城」や「常陸平氏」の基盤を築きました。
平氏は大きく4つ「坂東平氏・常陸平氏・伊勢氏・伊賀氏」が主要です

続きます。


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