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美濃の刀匠と歴史
能舞台の由来
奈良の春日神社の御神体の分身を勧請した能舞台は、室町時代と推定。

建築史上、古様式の桁のない四本柱建能舞台として稀に見る珍しい能舞台です。
後に、寛文5年8月に関領主大島雲八によって改築され原型を踏襲した。
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名刀 大島行光 / 大島志津
大島家の名物・大島行光と大島志津があります。

大島行光は「享保名物帳」所載の平脇差。大島茂兵衛光義所持。
雲八の次男、豊臣秀吉から千石を与えられていたので、弟の光俊と伏見城を攻めている。
光義は不遇の道をたどる。この間に「行光」を手放したではないか。
後に、一万石の旗本加々爪甲斐守直澄の所蔵になる。 そして、会津、四十万石の太守・加藤民部少輔明成が所持。
後に、明成の子・明友は一万石に転落したが、「行光」は同家に伝来した。

現在においては不明である。
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大島雲八ついて
美濃関一万八千石・美濃の生まれと言われていましたが、近年の調査で関村(現在の関市)に永正5年(1508)生まれであることが分かりました。

大島雲八がつかえた大名は始めは、長井隼人佐道利・織田信長・豊臣秀吉・徳川家康に仕え、弓の名人と知られている。 豊臣秀吉に仕えた時、弓頭となる。

雲八と長男「光成」は、徳川方につき、慶長5年(1600)関ヶ原の戦いの功績により、本領、美濃関国一万八千石を安堵された。

住まいは、現在の春日町一丁目から新町までがお屋敷。大島邸の木戸が(現在)の春日町二丁目。

現在の(当店)の位地にありました。雲八が死去後、子孫は幕臣となる。
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