| 由来 |
出雲国松江藩主・松平直政 1601年から1666年。
江戸時代前期の出雲国松江藩主。父は、結城秀康。(結城秀康とは、徳川家康の二男、二代将軍の兄)。直政は、家康の孫にあたり、秀康の三男。母は、秀康の側室・駒(三谷氏・後に月照院)。
直政は、慶長六年(1601)秀康が下野結城城より越前国に入部するにあたり、8月5日 (5月5日とも)に、近江国伊香郡中河内駅(滋賀県伊香郡余呉町)で生まれたと云える。幼名・河内麿、後、国麻呂改む。
同14年、9歳の時霊泉寺河南和尚について読書・習字を学ぶ。
同17年、馬術を習う。
翌18年、はじめて、甲冑を付け、兄・忠直の偏名受けて「出羽介直政」と名のった。
翌19年、(大阪冬の陣)の時、直政14歳にして、母三谷氏の激励を受けて初陣。
12月4日、真先に馬を進めて大阪方の武将、真田幸村の出丸に肉薄し、力戦奮闘して 一躍勇名をはせた。
元和元年1615年(大阪夏の陣)には、越前家の第三部隊となり、みずから太刀打ちして騎馬武者2人を討ち取り、更に敵首30余級を獲たので、徳川家康より大いにその戦功を賞せられ、手ずから打飼袋を賜る。
歴史に有名、(大阪の陣)の敵方・真田幸村から直政に「敵ながら天晴と自らの軍扇を与え絶賛をあびた」と伝えられています。現在(市指定文化財)伝、大阪ノ陣ニテ受領・金地老松ニ日の丸。軍扇の箱には、真田軍扇と書かれて納められている。島根県立図書館にて、松平直政の遺品として資料が残されています。尚、直政が馬に乗り豹の太刀を佩姿は、絵画などで拝見することがあります。
さて、翌年には兄・忠直より越前大野郡木本一万石を分け与えられ従五位下出羽守に任ぜられる。その後、上総国姉崎にて一万石を与えられる。家光将軍宣下の際、上洛し従四位下に進み禁色許される。寛永元年1624年6月、越前大野郡大野に転じて五万石を領し、同10年4月、信濃安曇・筑摩両郡で七万石賜り松本城に移る。同年15年2月11日、出雲国に封ぜられて十八万六千石を領し隠岐国一万四千石を預かり島根郡松江城に移る。翌16年は「国務の要領六ヶ条」を家老以下諸役人に示した。
さて、翌年には兄・忠直より越前大野郡木本一万石を分け与えられ従五位下出羽守に任ぜられる。その後、上総国姉崎にて一万石を与えられる。家光将軍宣下の際、上洛し従四位下に進み禁色許される。寛永元年1624年6月、越前大野郡大野に転じて五万石を領し、同10年4月、信濃安曇・筑摩両郡で七万石賜り松本城に移る。同年15年2月11日、出雲国に封ぜられて十八万六千石を領し隠岐国一万四千石を預かり島根郡松江城に移る。翌16年は「国務の要領六ヶ条」を家老以下諸役人に示した。
<国務要領六ヶ条>
第1条は、国を治める本を立て
第2条は、奢侈の源を塞ぎ
第3条は、利欲の害明らかにし
第4条は、財用の節を制し
第5条は、人を用うるの道
第6条は、法を立てるの要を拳げる
「国務要領六ヶ条」には、松平家の藩祖として施政の基本方針を示した物として注目される同年に初めて藩の軍役を定め職制を整備した。一朝有事の急に応ずる為の責務からと云われていた。同年18年、林羅山の推挙より黒沢忠弘(石斉)を藩儒として迎え数学の基本とした。正保3年(1646)6月には、町奉行に対して心得方を示して農を国の本として、神官・僧侶・及び工・商の各々が、その職掌を失わないよう論じている。これは当時、ややもすれば農民を蔑視する風潮があったからであろう。
万治元年(1658)隠岐国海士(あま)郡刈田山の後鳥羽上皇の山陵が久しく頽廃しているのでこれを、修繕し社殿を新築して祭典を興したことは、朝幕融和の施策と考えられる。寛文2年(1662)幕府は出雲大社を修め銀五十万両を献じ、松平直政が此れを監することになり、社殿の造営は7年経て二代綱隆の時に竣工した。同3年4月、霊元天皇の即位のあたり、将軍に代わって上洛しこれを奉賀した。後、正四位下左近将監少将に叙任される。旨を伝えられたが、直政は固辞して受けず、従四位上を受けるに止めた。松江入封以後、10代230年にわたり山陰の要衝を治めた。同6年2月3日江戸にて没。66歳。
法名 「高真院殿前羽林次将歓誉一空道喜大居士」 |
| 直政の一族のついて |
| 松平直政の祖父は徳川家康。父は、結城秀康は家康の次男でありながら将軍になれず、
豊臣秀吉の一時期養子となり、その後に結城家に養子に入り後に、関ヶ原の合戦では、 徳川軍宇都宮鎮将として大活躍をした。慶長1601年、下総結城から越前北ノ庄「福井」に入府した。六十六万石余を領し、松平姓を名のった。北ノ庄は、「旧・柴田勝家」が治めていた。家康は、文・武に優れている秀康より、三男・弟の秀忠に将軍を譲った。これについては、いろいろと説があります。そして、直政の兄(忠直)は、共に大阪の陣で活躍したが、祖父の家康からの功績の恩賞が気にいらず、乱行にはしったと伝えられている。忠直は、後に、豊後に配流となる。その後、忠直の末孫十六代藩主・松平慶永(春嶽)は、明治維新後に議定、民部卿・大蔵卿などを歴任した。 |
| 松江藩 |
| 直政は三代将軍(家光)とは、いとこになります。 その後に、五代宣維(のぶずみ)が享保十六年(1731)に江戸で倒れ、六代宗衍(むねのぶ)
わずか三歳で封を継ぎ、藩の財政は窮迫の極に達した。 七代・治郷(はるさと)こと、松平不昧 (ふまい)は、宗衍が、登用した朝日丹波をつづいて
登用し、藩政改革を徹底させ、藩財政の危機を救った。また、茶人としても有名とし、 名品の蒐集につとめた名君としても、ひろく知られています。
現在、国宝・重要文化財などが有名です。 |
| 松平不昧(治郷)について |
初め佐渡守、後に出羽守。
諱は、治郷。
号は、一々斉・一閑子・大円庵・未央庵・宗納。
茶は、千家流・遠州流・石州流を兼ね、道具の蒐集家・鑑定家でも有名。
文政元年4月24日没 68歳。
大正4年に正四位を追贈。
「古今名物類聚」の著があります。
茶道の名器名物を買い集めた大名の中で、屈指の人物。17歳で襲封し、藩財政の窮乏を立ち直らせた名君として知られている。19歳の時、江戸天真寺の大巌和尚について禅茶の道へ入った。
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| 不昧の茶道について |
不昧は、「利久の茶の湯とは、ただ湯をわかし茶をたてて呑むばかりなり、本を知るべし」
他に「釜一つもてば茶の湯はなるものを、よろずの道具好むはかなしさ」という歌を好み、 やたら名器を集めてほめあったりする茶道を盗人根性であると、痛烈に批判していた。儒学に基づく知足茶道論者で「茶道とは知足の道なり、不足にて茶を立て楽しむが人なり」
と説いていた。しかし晩年になって、藩財政が好転となり、名物道具を買い集めるようになる 「日本の名物残らず集め候」というようになり、当時の豪商鴻池をしのぐ蒐集かに転じる。
収集した名物を「古今名物類聚」十八巻に著わした。「中興茶人之部」「大名物之部」「天目茶碗之部」など八項目の考証があります。
現在における、陶磁史研究上の貴重な資料とされている。 |
| 付記 |
| 結城家からの名物・名刀が伝来し数十振りありました。 |